心形刀流の歴史

初代 伊庭是水軒(いばぜすいけん)から七代目まで

抜合(居合)
江戸下谷、伊庭道場があったといわれている場所

初代伊庭是水軒(いばぜすいけん)は慶安2年(1649)に信濃※1で生まれました。
是水軒は志賀十郎兵衛秀則(如見斎)から本心刀流剣術を学び、天和2年(1682)に江戸下谷で道場をひらきます。そこで本心刀流や諸流の長所を取り入れた心形刀流を創始し多くの門人を集めました。

二代目を継いだのは是水軒の長男で伊庭軍兵衛秀康です。この軍兵衛秀康以降、伊庭家の当主は軍兵衛を名乗ることとなります。
軍兵衛秀康は教養豊かであったようで、門人の中で技量・人物共に優れた者を後継者にするという心形刀流伊庭道場の特徴ともいえる後継者人選の方針を作りました。事実、三代・五代・六代・八代・九代といずれも養子として伊庭家に入り家を継いでいます。

三代目軍兵衛直保は二代目秀康の娘婿ですが、初代・二代目が65歳という長命だったのに対し45歳で亡くなったため、既に幕士として別に家を起こしていた二代目秀康の二男、軍兵衛秀直が四代目として後を継ぐ事になります。
ここに幕末・明治に至るまで徳川家に使え、戊辰戦争を戦い抜いた幕臣としての伊庭家が誕生します。

五代目軍兵衛秀矩は19歳という若さで家を継いだため、分家の伊庭久三郎秀清※2が後見人を務めることになりました。秀矩は御徒士組頭を務めていましたが、剣術試合※3で好成績を収め富士見宝蔵番※4に出世します。
六代目八郎次秀長も秀矩の養子となり伊庭家を継ぎます。秀長も義父同様に植溜で行われた剣術試合に出場し、幕府より伊庭本家とは別の家を起こす事を許されました。
そのため、伊庭本家は秀長の二男総太郎秀淵が先代(祖父にあたる)秀矩の養子になり七代目軍兵衛秀淵となりました。

  • ※1 是水軒の生まれについては江戸生まれなど諸説あり
  • ※2 久三郎秀清が隣家に入った強盗を退治したことが評判になり伊庭道場への入門希望者が増えた
  • ※3 江戸城内にある植溜(樹木栽培用の緑地)で行われた剣術試合で時に上様がご覧になる上覧試合も行われていた
  • ※4 江戸城内の中奥・大奥近くに在った調度品や宝物を保管する蔵の警備

八代目伊庭軍兵衛秀業から幕末・明治まで

伊庭八郎秀穎
伊庭八郎秀穎(肖像)

八代目軍兵衛秀業は幕府勘定吟味役三橋家の二男として生まれました。七代目秀淵の娘、ユウをめとり伊庭家の婿養子となりますがユウが22歳で亡くなったため、親戚の養女マキを後妻として迎えます。
このマキとの間に生まれた息子が後に遊撃隊などで名をはせる伊庭八郎です。

この時期、江戸では老中水野越前守忠邦が推し進める「天保の改革」により、剣術が再び注目され始めていました。
そんな中、越前守は秀業を屋敷に呼び出します。呼び出された先で行われた剣術の試合で、秀業は越前守に強さを認められ留守居与力に抜擢されます。その結果心形刀流の評判は高まり門弟は千人にも及びました。
しかし水野越前守の失脚により越前守に登用された者への弾圧が始まります。

秀業は伊庭家に何かあってはいけないと、30代半ばで隠居を決意し家督を譲ります。この時、嫡男八郎はまだ2歳、そのため門人の中から剣・人物共に優れた塀和惣太郎(はがそうたろう)を養子に迎え九代目を継がせることになります。
九代目軍兵衛秀俊※5は実子が2人いましたが八郎を始め5人いた秀業の子供たち全員を養子にします。

安政3年(1856)、幕府が武芸訓練機関である講武所が設け、隠居した八代目軍兵衛秀業は剣術教授方として出仕するよう命じられました。しかし秀業はこれを辞退し、代わりに九代を継いでいた秀俊、甥(兄の子)三橋虎蔵らを推挙しました。秀業に替わり出仕した秀俊は教授方から師範役へのぼり、養子(八代目実子)である八郎秀穎も元治元年(1864)には21歳の若さで将軍の警護役である奥詰衆の一員に選ばれます。

伊庭想太郎
十代目伊庭想太郎

慶応2年(1866)遊撃隊※6の設立により秀俊は遊撃隊に配属、遊撃隊頭取になります。
戊辰戦争で遊撃隊は複数の派に分裂しますが、秀俊は維新後も静岡藩主となった旧徳川将軍家に従い遠州横須賀に移り住みます。
しかし廃藩置県を経て華族となった徳川家は再び東京に戻ることになります。
秀俊も東京に戻り海軍省の剣術師範をするも明治19年(1886)胃癌で死亡します。
この時、既に八郎は函館で命を落としており、八郎の弟想太郎が十代目を継ぎますが東京市長の星亨を刺殺した罪で投獄され、明治40年(1907)獄中で病死します。想太郎の死により心形刀流伊庭宗家は途絶えることとなりました。

  • ※5 惣太郎が九代目軍兵衛を名乗ったのは八代目がコレラで死亡した安政5年(1858)以降、また明治に入り軍平と改名
  • ※6 常に将軍の側で警護するのが奥詰だとすると、遊撃隊は同じ将軍の護衛が目的でも必ずしも側にいるわけではなく配置を固定せずに自由に動ごくことができる部隊

伊庭家系統 

流祖・伊庭是水軒秀明(常吟子)-二代伊庭軍兵衛秀康(常全子)-三代伊庭軍兵衛直保(常備子)-四代伊庭軍兵衛秀直(常勇子)-五代伊庭軍兵衛秀矩(常明子)-六代伊庭八郎次秀長(常球子)-七代伊庭軍兵衛秀淵(常成子)-八代伊庭軍兵衛秀業(常同子)-九代伊庭軍兵衛秀俊(常心子)-十代伊庭想太郎

  • ※(カッコ)内は剣号
伊庭家系統早見表
  剣号 略歴
初代 是水軒秀明 常吟子 志賀十郎兵衛秀則(如見斎)から本心刀流剣術を学ぶ
天和2年に江戸下谷で道場を開く
二代目 軍兵衛秀康 常全子 是水軒の長男
秀康以降、伊庭家の当主は軍兵衛を名乗る
三代目 軍兵衛直保 常備子 二代目秀康の娘婿
四代目 軍兵衛秀直 常勇子 二代目秀康の二男。幕士として別に家を起こした後に継ぐ事になる
幕臣としての伊庭家が誕生
五代目 軍兵衛秀矩 常明子 19歳で当主に、そのため分家の伊庭久三郎秀清が後見人となる
剣術試合で好成績、御徒士組頭から富士見宝蔵番へ出世
六代目 八郎次秀長 常球子 秀矩の養子
剣術試合で好成績、幕府の許可で別の家を起こす
七代目 軍兵衛秀淵 常成子 秀長の二男
先代(祖父にあたる)秀矩の養子になり継ぐ
八代目 軍兵衛秀業 常同子 秀淵の娘ユウの婿養子だが死別、マキを後妻として迎える
水野越前守の引き立てで留守居与力になるが、越前守の失脚後隠居
伊庭八郎は秀業の嫡男
九代目 軍兵衛秀俊 常心子 元門人で秀業の養子、秀業の実子を全員自らの養子にする
講武所師範役のちに遊撃隊頭取、明治期は海軍省の剣術師範
十代目 想太郎 - 八代目秀業の実子で九代目秀俊の養子
投獄中に病死
  • 参考文献:「伊庭八郎のすべて」(新人物往来社編),亀山演武場開場百五十周年記念祭冊子

心形刀流とは