心形刀流人物伝

実在の人物から小説の登場人物まで心形刀流の遣い手や心形刀流に関わりのあった人々を紹介します。
※順不同、敬称略

歴史上の人物

心形刀流を遣っていたとされる歴史上の人物を紹介します。

伊庭是水軒秀明(いばぜすいけんひであき)

伊庭是水軒

慶安2年(1649)-正徳3年(1713)
江戸時代前期-中期の剣術家、信濃の生まれ。※生まれについては諸説あり
柳生流をはじめ諸流を修めたと言われており、特に志賀如見斎に学んだ本心刀流に惹かれ、天和元年(1681)に許状を得たとされています。
翌年諸流の良いところを集めた心形(しんぎょう)刀流を起こし江戸下谷で道場をひらき、多くの門人を集めました。
正徳3年閏5月11日死去。65歳。

伊庭八郎秀穎(いばはちろうひでさと)

伊庭八郎秀穎

天保15年(1844)-明治2年(1869)
奥詰・遊撃隊、江戸生まれ。
江戸時代末期(幕末)から明治にかけての武士・幕臣。隻腕の剣客として知られる。
八郎は心形刀流八代目伊庭秀業の長男として生まれました。小さい頃は身体が弱かったとも、剣術よりも漢学や蘭学に興味があったとも言われていますが、実際に本格的に剣術を始めたのは遅かったそうです。
18歳の夏に講武所剣術師範役並になった八郎は、その年の暮に将軍家茂の奥詰に選ばれ、20歳で家茂を警護※1して上洛します。八郎はこの在京中の出来事を日記に書いており、その日記は八郎の死後「伊庭八郎征西日記」として活字になります。
戊辰戦争では遊撃隊として転戦。箱根で左腕を切断する重傷を負いますが、その後も箱館まで戦い続け五稜郭で命を落とします。享年27歳。
※1:上洛時の八郎の肩書は講武所剣術方

松浦静山(まつらせいざん)

松浦静山

宝暦10年(1760)-天保12年(1841年)
肥前国平戸藩の第9代藩主、江戸の生まれ。
16歳で平戸藩主となった松浦静山は、20歳の時に藩校維新館と楽歳堂(らくさいどう)文庫を創設しました。
日本国内で蘭学や博物学が非常に盛んになった時代でもあり、静山の収集した図書は和書・漢籍・洋書の分野にまたがり、約5,000部(34,000冊)を数えました。
文武に秀でた人物で、心形刀流も二代目伊庭秀康の弟子水谷権太夫忠辰(水谷流・甲州流)から数代を経て松浦静山に伝わり免許皆伝を得ています。
有名な『甲子夜話』は静山が隠居後に執筆した随筆集ですが、他にも多数の執筆があり、中でも『剣考』『剣談』『心形刀流剣術諸学書』は心形刀流を伝える貴重な資料となっています。享年82歳

島田魁(しまだかい、しまださきがけ)

島田魁

文政11年(1828年) - 明治33年(1900年)
新選組隊士(二番組伍長)、守衛新選組隊長。
美濃国方県郡雄総村(現岐阜県岐阜市長良雄総)庄屋の二男として生ました。
母方の祖父に預けられた頃から剣術修行に目覚め、名古屋城内の御前試合で優勝し嶋田家の養子となります。その後江戸に出て心形刀流・坪内主馬道場※1で修行します。
京都で新選組に参加、鳥羽伏見の戦いから箱館戦争まで戊辰戦争を通し戦い抜きます。
降伏後、謹慎を経て京都に戻り様々な商売を経験、最後は西本願寺の警備員として勤務中に倒れ亡くなります。享年73歳。
※1:坪内主馬は八代目伊庭秀業の元で心形刀流を修め、自らも牛込御門内(現在の飯田橋駅付近)に道場を構えていた。