心形刀流保存赤心会とは

亀山で途切れること無く伝承される心形刀流

心形刀流六代目師範役 小林 強<心形刀流六代目師範役 小林 強

幕末、江戸四大道場の一つ「心形刀流伊庭道場」で免許皆伝を得た亀山藩士山崎雪柳軒が、元治元年(1864年)に藩の剣術指南に任命され心形刀流の指導を始めました。

以来150年、現在まで途絶えることなく稽古が続けられ、心形刀流を伝承しているのは、世界で唯一亀山のみとなっています。

亀山藩御流儀心形刀流武芸形
(三重県指定無形文化財、亀山市指定無形文化財)

昭和26年(1950)に亀山町(当時)無形文化財「亀山藩御流儀心形刀流武芸形(かめやまはんおんりゅうぎしんぎょうとうりゅうぶげいがた)」に指定され、昭和50年(1975)には、三重県無形文化財第一号として指定されました。

心形刀流、亀山へ

文政11年(1828)に亀山藩江戸藩邸で生まれた山崎利右衛門(雪柳軒)は、八代伊庭軍兵衛秀業から免許皆伝を受け、江戸四大道場の一つ伊庭道場「練武館」で師範代をしていました。元治元年(1864)3月13日、37歳になった雪柳軒は江戸詰めを解かれ亀山に戻り自藩の剣士育成を始めました。

雪柳軒が亀山で指導を始めた3ヶ月後、14代将軍徳川家茂の上洛に警護のため随行していた伊庭八郎秀穎(八代伊庭軍兵衛秀業の息子で奥詰衆、のちに遊撃隊)が、江戸への帰路亀山を訪れました。
亀山滞在中、伊庭八郎秀穎は連日の朝稽古に参加しただけでなく心形刀流の型を披露したことが記録に残っています。

伊庭八郎の滞在は雪柳軒が免許皆伝を受けていたことと合わせ、亀山に伊庭の心形刀流が直接伝わり根付く大きな要因となりました。

亀山演武場の建設と「赤心社(せきしんしゃ)」

元治2年(1865)、時の十五代亀山藩主石川総脩により武道場の設立が許され、江戸の伊庭道場の長所を取り入れた約50坪の道場「亀山演武場」が建設されました。

そして明治3年(1870)、それまで柳生新陰流や鹿島新当流など複数あった亀山藩の武芸流儀は十六代藩主石川成之により心形刀流に統一されることとなりました。
雪柳軒の熱心で厳格な武道教育が功をなし、亀山演武場の名声は次第に上がり他の藩から入門する者もあり、教えを受けた人数は300人を超えると伝えられています。

明治4年(1871)の廃藩後、演武場は雪柳軒に下げわたされ武術の指導を続けましたが、明治9年(1876)には廃刀令が出されるなど、その存続の為の苦労は並大抵なものではありませんでした。事実、雪柳軒は私費で稽古着や竹刀、防具を購入し門人に無償で与えた他、就職斡旋まで行っていました。
さらに雪柳軒は、門人有志と「赤心社」という組織を作り、演武場の維持運営にも当たりました。

心形刀流保存赤心会の発足

「亀山藩御流儀心形刀流武芸形」が三重県無形文化財第一号として指定された昭和50年(1975)9月、「心形刀流保存赤心会」が発足し伝承活動が進められてきましたが、昭和60年(1985)1月16日未明、発生した火災により亀山演武場が消失するという悲劇に見舞われました。
しかし有志諸氏の尽力により直ちに復元計画が進められ、昭和63年(1988)、旧演武場の外観・内容を採用した亀山演武場が再建され現在に至っています。

元治元年に山崎雪柳軒によって心形刀流が伝えられて以来、亀山では一人の師範役を代表とした稽古が続けられ、二代目師範役市川権兵衛(いちかわごんべえ)、三代目師範役加藤正斎(かとうせいさい)、四代目師範役加藤文郎(かとうふみお)、五代目師範役小林正郎(こばやしまさお)と代を重ね、現在、六代目師範役小林勉(こばやしつとむ)の元で稽古が続けられています。

  • 参考文献:「伊庭八郎のすべて」(新人物往来社編),亀山演武場開場百五十周年記念祭冊子